2012/05
近代医学を伝えたエルウィン・フォン・ベルツ君川 治


[我が国近代化に貢献した外国人17]

ベルツの経歴
 ベルツは1849年に南ドイツのビューティハイムで生まれた。父は建築請負師、5歳で小学校に入学し、8歳でラテン語学校、12歳からは親元を離れてシュツットガルトの高等学校に入学した。1866年にテュービンゲン大学医学部に入学し、20歳で医師予備試験に合格後、ライプチッヒ大学に転学して臨床医学の第一人者ヴァンデルリヒ教授の指導の元で学んだ。
 講師、助手となって将来はヴァンデルリヒの後継者と目されていた彼に注目したのは、相良知安の弟でドイツに留学していた相良元良だった。ライプチッヒ病院に入院し、ベルツの診療に感銘を受けて、ベルリン公使青木周蔵とウィーン公使牧野伸顕に日本招聘を依頼した。
 1876年(明治9年)に来日した27歳のベルツは、2年契約で東京医学校教授に就任し生理学を担当した。当時の教授陣は外科のシュルツェが主任教授で、内科ヴェルニヒ、解剖学デーニング、薬学ランガルトなど、数学・理化学・博物学の全てがドイツ人教師であった。ベルツは2年後に4年の延長契約をし、1881年には主任教授となり、滞日期間を更に延長して1902年(明治35年)まで26年間東大教授として活躍した。
 この間、東京医学校は東京大学医学部(1877)、帝国大学医科大学(1886)、東京帝国大学医科大学と変遷し、直接ベルツの指導を受けた学生は800人を超えた。卒業生たちは京都・大阪・九州・北海道の大学で教鞭をとる者や各都市の主要病院の医師となる者など、多方面で活躍した。「お雇い外国人−医学」の著者、石橋長英東大医学部名誉教授はエルウィン・ベルツを「日本医学の父」と称えている。

ドイツ医学の採用
 明治維新政府は当初医学所指導員としてイギリス人軍医ウィリスに辞令をだした。ウィリスは鳥羽伏見戦争で薩長軍の負傷者を治療し、戊辰戦争、会津戦争に従軍して薩長軍に貢献した医師である。これに対し江戸の蘭方医たちが反対し、元佐賀藩医相良知安が大学南校頭取に就任していたフルベッキに相談した。フルベッキはドイツ医学の優秀性を維新政府に説明してドイツ医学の採用となった。これには長崎致遠館でフルベッキの指導を受けた佐賀藩出身の大隈重信と副島種臣の協力が大きかったと考えられている。
 1871年にドイツから、陸軍軍医で外科医のミュルレルと海軍軍医で内科医のホフマンが来日した。医学校は予科2年、本科5年とし、病院インターンを加えて8年で修了とした。学生は予科60名、本科40名に厳選し、専門の医学と並行して、基礎として語学、数学・物理・化学・自然科学を学ぶようにしている。ミュルレル・ホフマンは3年契約で、後任は外科シュルツェ、内科ヴェルニヒ、その後ベルツに引き継がれていく。
 東大病院の前に「相良知安先生記念碑」が建っており、ドイツ医学導入を記念碑として残している。


医学教育
 ベルツは、午前中は医師として東大病院で勤務して患者の診断治療に当たり、名診断医としての名声を得た。患者たちは赤門開門と同時に争って病院に並んだという逸話がある。学生に対しては臨床講義、診断学、病理各論などを教え、診断法として触診、打診、聴診を重視し、自らベルツ式聴診器を開発した。
 1883年に「龞(ベルツ)氏内科学」を執筆して発刊したが、従来の翻訳書と異なり、日本の気候風土、日本人の生活習慣を考慮して記述されており、内科医必読の書とされたようだ。
 1901年、日本在住25周年を記念して、文部大臣、大学総長を来賓として盛大な祝賀会が行われた。その席で多くの医学者や学生に対し、科学の精神について講演した。
 ――「西洋の精神は、自然の探究、世界のナゾの究明を目指して幾多の傑出した人々が数千年にわたって努力した結果であります。それは苦難の道であり、汗−それも高潔な人々のおびただしい汗で示した道であり、血を流し、あるいは身を焼かれて示した道であります。」加えて――「日本では今の科学の『成果』のみを受取ろうとし、精神を学ぼうとはしないのです」――と苦言を呈している。
 ベルツはこの講演について日記に、「自分が最も強調した点は、日本人が自身で産み出しうるようになるためには、科学の精神をわが物にせねばならないということであった」と書いている。


ベルツの業績
 ベルツは医学研究を始め多くの業績を残している。
 第1は寄生虫病の研究だ。日本人に多い十二指腸虫の卵を1877年に発見し、1878年には十二指腸虫を発見した。さらに脚気の研究をしている。当時は未だ脚気は伝染病として研究されていた。
 第2は温泉医学の研究で、温泉治療に関心を持ち、注目していた。日本の温泉治療は経験に頼るだけで医師も居ないし化学分析もされていない。ベルツは全国各地の温泉を調査したが特に注目したのが草津、伊香保、箱根、那須、熱海で、1880年(明治13年)に温泉についての建白書「日本鉱泉論」を政府に提出し、政府が患者の温泉治療を指導すべきだとしている。
 当時の草津温泉は軽井沢から50kmの山道を徒歩で行く辺鄙な場所で、それでもベルツは自ら温泉療養所を建設しようとして土地を購入したが、地元の一部に反対者がおり実現はしなかった。
 第3は日本人の人類学的研究である。3000人の計測を行い、1883年に「日本人の身体形質」と題する論文を発表した。皮膚の色、頭髪、目の形などから、日本人は混血民族で、朝鮮・満州型(又はモンゴル系)、マレー型、アイヌ型があり、薩摩はマレー型、長州は朝鮮・満州型とした。蒙古斑もベルツの指摘と云われている。
 第4は予防医学の大切さを説いたことで、日本中央衛生会では発足時から顧問を務めている。日本の住宅は木造建築で暖房の点では西洋建築に劣るが、湿気の多い日本の風土では通風が良いので、衛生学の見地から西洋建築を無条件で推奨し得ないと述べている。衣服についても和服が良いとしている。
 栄養学からみて、日本人の常食としているコメは殆どが炭水化物からなるので、よく噛まなければならないと云い、日本人に胃腸病が多いのは食物を良く噛まないことと運動不足が原因としている。唾液は植物食品を消化する能力があり、食物と唾液をよく混和させなければならない。日本人の食べるスピードは驚くほど速すぎると述べている。
 野菜の種類が豊富で、獣肉を食べないが、魚と鶏肉を摂取しており国民食としての価値は立派としている。
 避寒、避暑については自ら湘南の逗子と箱根に別荘を持ち、これが皇室の御用邸選定に寄与したとも云われている。
 東京大学教授を退官してからは、宮内庁顧問に就任し、皇族方の診療に当たり、1905年まで29年間日本に滞在した。この間、日本人の花子夫人と結婚し、夫人同伴でドイツに帰国したが1913年64歳で亡くなった。
 滞日中の功績に対し政府は勲一等瑞宝章、勲一等旭日大綬章を贈っている。


君川 治
1937年生まれ。2003年に電機会社サラリーマンを卒業。技術士(電気・電子部門)




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